ヴァ―レ・リーベ 第1話「天才少女」

 街。平穏な街。大勢の人間が、アスファルトをも焼いてしまいそうな朝日に見守られながら、しかし見守られていることなど露ほども知らず、スマホやら携帯電話やらを見るために下を向いて歩いている。どこを見ても大勢の人の群れ、動かない車の列、何度も行きかう電車、広い空に独特な機械音で存在感を隠そうとしない飛行機。誰もが忙しい。そんな息苦しく、物々しい風格とは無縁な街。都会とは少し離れている街。

 この街には特徴なんてない。タワーマンションなんて片手で数えるほどもないし、そもそも高い建物自体が少ない。準急電車や急行電車は止まってくれるが、特急電車は颯爽と通過していまう。代わりに小さな用水路と、所々に小さな山がある。見方によっては田舎に見えなくもない。しかし、一般家庭の家屋は整然と立ち並んでおり、大型スーパーも何件か見当たる。驚いたことに5分ほど歩くごとに会社の違うコンビニエンスストアもあるので、不自由はない。駅前にはカラオケがあり、近くに学校がある学生たちがよく使っている。

 そんな街に不釣り合いか意外とお似合いなのかは定かではないが、1人の天才科学者が住んでいた。科学者と言っても、彼女はまだ16歳にも満たない。高校1年生にしては少々見た目が幼いようにも思われるが、整った顔立ちと、腰辺りまで伸びた、薄い水色の髪は、中々に愛らしいものだった。家ではダボダボな、いかにも科学者が着てそうな白衣を地面に引きずりながら身にまとうことが多い彼女の頭脳は、他の誰よりも優れていた。

 彼女の名は小黒友里(おぐろ ゆり)という。

 彼女は、今まで誰も思いついたことのないような発明をいくつもしてきた。例えば、トイレを移動できるようにした。歩くトイレ。ある時には歩くのを補助するために、足を浮かせるスリッパ。よく発達した化学は魔法と変わらないというけれど、彼女はこの地球上の化学では到底つくれないようなものまで作ってのけてきた。それなのに、彼女は目立ちたがらない。発明品は隠そうとするし、彼女自身、他者とは必要以上にコミュニケーションをとらないように生きてきた。

 しかしながら、これはコミュニケーションが苦手だからというわけではなく、むしろ本気を出せば誰よりもコミュニケーション能力を発揮することが出来る。それにも関わらず、人と必要に以上にコミュニケーションをとろうとしない。そんなことがあってか、地域の人からはすっかり変り者扱いされてしまっている。

 そんな彼女が唯一話す人物、古谷奏汰(ふるや そうた)は彼女の自宅兼ラボの隣に住んでいる。友里とは幼馴染であり、彼女の家に入っては何かと世話を焼いてあげたり、かと思えばリビングに置いてあるお菓子を勝手に食べたりしている。

 友里の1日は、大体が彼と一緒に過ごされる。お隣同士、同じ高校、同じ学年、同じクラス。ずっと一緒にいるには完璧な肩書だった。

 そんな2人の関係は、カップルのように見えるかもしれない。仲の良い幼馴染カップル。

 でも、現実にはそんなことは一切ない。寝落ち電話はしないし、お互いがカップルであると思っているわけでもない。そもそも告白すらしていない。

 カップルでもない彼らは今、用水路の脇に設置されたガードレールに沿って、2人で学校へと歩いている。

 入学式、桜の花が降り注ぐあの日から通り始めた通学路。2人が真新しく感じていたこの道にもそろそろ慣れてきた。

 風は春のほんのりと良い香りを伴った優しくて暖かい風ではなく、夏の到来もわずかと思わせるじめじめとしたものだった。

 温かいというよりかは、わずかに蒸し暑い。

「ふぁ、あ~」

 いかにも眠いですと言わんばかりに、友里は大きなあくびを小さな手で隠しつつも、口を開けた。

「お前、また徹夜して実験してたのか?」

 彼女の隣を歩き、街を眺めるふりをして、古谷奏汰は横目で見ながら訊ねた。

「違うよ、全然違う。昨日の夜はね~、んふっふっふ~」何やら不敵な笑みを浮かべながら友里が答えた。「造りたいものがやっと完成したんだ~」

 普段は造ったものを人に見せたりしない友里だが、幼馴染に、外ならぬ奏汰にだけは自慢げに見せることが多々あった。しかも、その実験も彼に手伝わせている。大抵のものはくだらない発明なので、成功・失敗に関わらず奏汰は呆れている。尤も、なんだかんだ言って実験を手伝っているのは彼の意思だけど。

 それもそのはず、古谷奏汰という少年は、彼女のことが密かに好きだったのだから。

 ジャリ、ジャリ、ジャリ、とアスファルトに落ちている小さな小石と靴の底との摩擦によって、人間の耳に聞こえない音が奏でられる。

「ふーん……」

 興味のない振りをしてから、ちょっと緊張気味に奏汰は「どんなの造ったの?」と訊いた。

「それは、今日学校から帰ってのお楽しみ♪」

「なんだこいつ」

 そんなやり取りをしている間に、彼らの通う杉田高等学校の校門前に着いた。

 この高校はこの地方にある4つの高校の内の1つであり、偏差値的にはよくも悪くもなく、所謂普通と呼ばれる学校である。とはいっても、古谷奏汰はこの学校に入学するために、必死で勉強をしてギリギリで受かった。

 一方は小黒友里の方はと言うと、もっと上位の学校に行くことが出来たかもしれないと周囲から言われるほどの頭脳を持ち、実際にこの高校にはかなりの余裕をもって合格した。

 ではなぜ、この学校を選んだのか。それは彼女が近くの学校に通い、通学時間を短縮して自分の研究に没頭したかったからという理由を提示されれば、それらしい。しかし、他にも理由がある。彼女はそれを秘密にしている。

 以前、古谷奏汰が「もっと上の学校に行けば、色々な実験ができたのに、なんでそうしなかったんだ?」と訊いた際には「だって、この世界の化学って全然発達してないからさ」と答えたあとに「なに偉そうに言ってんだ」と彼にツッコまれて、その後2人で大笑いした事がある。

 学校の校門をくぐると、彼らの口数は次第に少なくなっていった。あまり目立ちたくないという、友里のお願いに奏汰は紳士的に答えた。

 ただ、会話が少なくても、2人の距離は近く、それを目撃した生徒からは2人は付き合ってるんじゃないかと噂される。

 下駄箱で下履きと上履きを履き替え、床をトントン。

 上履きの踵まで足が入ると、また横に並んで冷たい床とコンクリートの壁で築かれた廊下を歩く。

 黒い床や窓際に張り付いた埃が、自身の寂れた記憶を思い返しながら、この幼馴染同士の男女を眺めている。

 『1年B組』と黒く太い字で書かれたプレートの下、教室の出入り口である戸を、奏汰が開けた。

「よ!おはよう!お2人さん!朝から見せつけてくれるねぇ」

 2人で同じ教室に入った途端、活力のある声が出迎えた。

 赤茶色の髪をした、背の高い少年。気崩した制服の襟からは、たくましい首筋が見えた。

 彼は相澤友樹(あいざわ ともき)。数少ない古谷奏汰の中学からの親友で、小黒友里に次いでよく話すのが彼なのだ。

「おはよう。見せつけてるわけじゃない。たまたま、同じ時間に同じ通学路だっただけだ」

「毎日だろ?そのうち学校が無い日も一緒に来たりしてな」

「お前なぁ」

 奏汰が「お前からも何かいってくれよ」と友里に視線を送ろうとすると、すでに彼女はいなく、教室の隅にある自分の席に座り、知らんふりをして鞄から教科書や筆記用具を出していた。

 逃げたな………。と瞬時に奏汰は悟った。

 視線を友樹の方に戻すと、もう一人、きっちりと制服を着ている女子生徒が立っていた。

 茶色っぽい髪は、首元で切られていて、奏汰と同じくらいの背丈の可愛らしい女の子だ。

「おはよう、古谷君」

 柔らかい笑顔で彼女は挨拶した。

「ああ、おはよう。宮野さん」

 奏汰も同じように挨拶を返した。

 宮野花蓮(みやの かれん)。何の縁か、奏汰と友樹と同じ中学校の女子が高校の同じクラスになったのだ。中学での成績は中の上くらいであり、それなりに勉強が出来ていた。中学生の頃はこの男子2人とはあまり話さなかったが、高校に入学は、周りに知らない人ばかりだったからか、奏汰と友樹によく話しかけるようになった。毎日勉強をし、前回の中間テストで上位をとれるような彼女にも、一つの秘密がある。彼女も同様に、頑なに隠している。

 キーンコーンカーンコーン。

 真新しいスピーカーから明るいチャイムの音色が鳴り響き、生徒たちに時間を伝えた。それと同時に担任の先生が「おーい、ホームルーム始めるぞー」と声かけながら入ってきた。黒いスーツに、楕円形の眼鏡をかけたその先生は、青年というには若干老けて見えるし、中年というにはまだ青さの残る男性教師だった。いかにも真面目ですといった印象は、入学当初、クラスの生徒たちを委縮させた。

 バンッと教卓にクラス名簿を置いて開くと、一つ息を置き、順に呼び出した。

「朝倉慎之介、いるな…………荒井良太、いるな…………石川花菜…………欠席か?」

 名前を呼び、席に視線を移して出席しているか確認すると、名簿長に印をつけている。さて、この間に生徒が何をしているのかと、教室全体を見てみると、読書をする者、今日ある漢字テストの勉強をする者、部活の練習メニューについて考える者と、実に多種多様に渡った。

 その中でも最も目を見張るのは、フラスコやらビーカーやらを机に並べ、何か薬剤を混ぜようとする、教室の端に座った女子生徒の姿だった。

「……………小黒。教室内で実験をするなと言っているだろ」

 担任は彼女の奇行に気づくとすぐに注意した。

 いや!目立つの嫌なんじゃないのかよ!何やってるんだよ!と彼女の隣に座る奏汰は内心ツッコんだ。

「いえ、先生、これはただの初歩的な実験でして、決して危険なものでは……………」

 そう言いかけたとき、反対側の席に座る男子生徒が声を上げた。

「へっ、どうだか。ひょっとしたらクラス全員を殺す毒でも作ってるかもしれないぜ。あいつの身体からする薬品の匂いで教室がくせぇんだよ」

 男子生徒は、いかにも臭いという風に、片手で鼻をつまみ、もう片方の手で空中を扇いだ。

 もちろん教室にはそんな匂いはなかった。まったくの言いがかりであることは、皆の目から見ても明らかだった。しかしその男子生徒は続けた。

「いやー科学者様はたいそうお忙しそうで大変ですね。今度は何の実験をなさっているんですか?」と今度は馬鹿に丁寧に言った。

 山宮健司(やまみや けんじ)というこの男子生徒はなにかとこの奏汰と友里につっかかってくる。2人が一緒に居れば嫌味を言ってくるし、気に入らないと奏汰を叩こうとする。こんな風に、友里を馬鹿にすることもある。

「いい加減にしろよ。いつもいつも、馬鹿にするようなことを言って、何が楽しいんだ」

 奏汰は普段のことがあってか、たまらずそう言った。

 話題の中心である友里は、我関せずといった感じで、視線を右に移すことはしなかった。

「おや?今度は旦那様のご登場で?お前も、匂いのきつい女子とよく一緒にいられるなぁ」

 懲りずに健司は言い返した。

 これに見かねた友樹は後ろを振り向き、健司に向けて言い放った。

「健司。人の匂い云々言う前に、お前はそのダサい髪型をどうにかしろよ」

 健司の髪型は確かに不格好だった。どれだけ安い床屋さんに言ったのかと誰もが訊きたくなるほど、おかしかったのだ。クラスの皆は友樹の言葉を聞いて、クスクスと笑いだした。それに対し、健司は顔を若干赤くしてそっぽを向いてしまった。

 担任はやれやれと言った表情で3人を見ると、コホンッ咳払いしてから1日の連絡を手短に伝えた。まず一つ目、今日はもうすぐ控えている体育祭に向けての職員会議があるため、授業時間が短縮されること、2つ目は登下校で横並びをする生徒への苦情、最後に離任式についてだった。

 奏汰はこれらの話を聞き流しながら、左隣に座る少女のことを考えていた。

 不規則に開けられた窓からは5月の暖かく優しい風が吹き抜け、その少女の薄い水色の髪が揺れていた。

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