プリン

 四月も終わり、菜の花は散り、桜の木もすかっり緑色に染まった頃、私は、高校に入って二年目となる通学路を帰っていた。アスファルトは砕け、凸凹とした道で自転車の各パーツが緩んでいるのか声を上げている。

 身体はクタクタ、ワイシャツの下は汗が滲んでいる。まだ夏にもなっていないのに、嫌に熱い。

 ただ風は涼しくて、なんとなく青と水色とが混ざる空を見上げれば、傾き始めた太陽の光によって、大きな雲や、小さな雲が大地に影を落としている。

 天使の階段と呼ばれる現象だ。

 それはまるで、太古の昔、ローマで描かれた壁画にでも出てきそうな幻想的な光景だった。しかしその絵も、雲がより大きくなってしまえば暗い空へと移り変わっていく。

 私は重たいシティサイクルで30分ばかり漕いで毎日、家から学校、学校から家へと行き来を繰り返している。

 脚には自信があり、通学中に私の前を走る自転車などがいれば、後ろから車が来ていないことを確認して追い抜いている。

 私にとってそれは退屈な通学中のなかのささいな楽しみであり、ゲームにも近い感覚を覚えていた。

 それなのに、ここ最近はやけに足が重い。

 ペダルを漕ぐにも、前よりも力が必要になったように感じる。

 だからこの日も、いつもよりも遅く走り、他の自転車は私は追い抜いていく。

 向かい側の歩道で、同じく下校途中の小学生の男の子や女の子の集団が楽しそうに歩いていた。

 彼らの声は、車通りが多いこの道でもよく響いている。

 横目で見ながら角を曲がり、私は大きな総合病院の脇道に入った。

 正面からは幼稚園バス。

 道路の左側をゆっくりと進み、幼稚園バスをやりすごしようやく家に着いた。

 私は昔ながら玄関の引き戸を、ガラガラと音を立てながら開けた。

 築何年だかは全く持って知らないが、この家は恐らく古い。

 床は抜けそうだし、壁も剝がれかけている。

 唯一の救い暖房便座で、一年を通して快適に使える。

 そんな私の家の床を、靴を脱いであがり、背負っていた重たいリュックを廊下の端に置いた。

 白い靴下は、体育の時に靴の中に入った土で汚れている。

 私の帰宅に気が付いたのだろう、奥の居間から顔を出した。

「ただいま」

「あぁ、うん。ただいま」

 そっけなく返事をすると、急な階段を上り自室へと入る。

 部屋を入って左側にクローゼットがあり、開ければいくつものハンガーがかかっている。

 そのうちの一つを取り出すと、制服のネクタイを外し、ジャケットと合わせてハンガーにかけて、元の位置に戻した。

 今日は疲労感が溜まっており、少し早いがもうお風呂にしてしまうと決めた。

 この季節というもの、日が暮れる時間がどんどん遅くなってきており、まだ窓越しに見える空は明るい。

 浴槽を軽く洗い流し、湯を張る。適当に香りのよい固形の入浴剤を一個、脱衣所に置いてある箱から取り出した。

 それを湯気が立ち上る浴槽の中に落す。

 水音が一回聞きこえ、私は服を脱いで中へと入った。

 シャワーで一旦全身を濡らしたあと、シャンプーを泡立てて、髪と絡めていく。

 短い髪だから頭はすぐ雪の積もった冬の山のように白く変化した。

 髪の長い女性であれば、頭を洗うのに時間がかかり大変だと聞いたことがある気がする。

 恋人だった彼女もそうだったのだろうか。

 そんな風に考えながら、次はボディーソープを身体に塗りたくる。

 髪と違って、身体の方は泡立ているのに若干苦労する。

 どれだけ綺麗に洗おうと頑張ってみても、どこかしらに洗い残しが残っているものだ。

 熱くなく、冷たくもなく、人肌より少々温かい程度のお湯で注意深く、泡を洗い流していく。頭から身体へ、全身くまなく、学校でついた汚れを洗い流していく。

 何重にもシャワーノズルの行き来させ、ようやく自分でも満足できるくらいには汚れも泡も落せたと思ったころ、浴槽に使った。

 壁に貼られた緑色のタイルは湿っており、ときおり水滴が流れて落ちていく。

 温かい湯は身体を刺激し、芯まで温まる感覚がじわっとひろがっていく。

 天井にはカビが生えており、隅に、真ん中に、電球のそばが黒くなっている。

 格子が取り付けられた窓の外は、晴れいてるんだか、曇っているんだか分からなかった。

 この色合いは、恐らく晴れているのかもしてないかえれど、実際に自分の目で確かめなければ分かりようがないものだ。

 お風呂というものはなんとなく、悩み事を思い返す場所のような気がする。

 普段歩いたり、ご飯を食べたり、友達といる間は特に悩みなど忘れてしまうものだが、お風呂に入ったり、夜ベッドの上にいるときはやけに自分の事について、周りのことについて考えてしますものだ。

 それは連鎖的に作用し、やがて思い出さなくていいものまで思い出してしまう。不思議なモノだ。今、私が思い出しているのは今年の二月に別れた彼女のこと。

 去年の冬に告白してきて付き合う事になった彼女だが、私には習い事が、彼女は部活があり、お互いにデートなどにでも出かけるような状況ではなかった。

 ただ私の家に遊びにくることはあり、居間ではゲームをしたり、それ以外の遊びをして過ごしていた。とても楽しかった。

 しかし、人の心の移ろいは短く、また誰にも分からないもので、二月、振られた。

 私が悪いことをしてしまったのだ。私は彼女をしっかりと見ていなかった。そのことに気が付いたのは別れてからだった。

 まさか、失ってから気づくものがあると、そんな物語のようなことを体験するとは思わなかった。もう終わったことだ。もう取り返しのつかないものなのに。もう戻れないのに。それでも、「もしこうしていたら」とか「もっと言葉にしていれば」だとか考えて後悔の念に苛まれてしまうのは人間の性質なのか、それとも高校生という若さゆえだったのか、私には分からなかった。

 私は肩まで浸かっていたが、さらに姿勢を低くして首までお湯に浸かった。

 恥ずかしさやら、嫌な考えから抜け出そうと小さな奮闘をした。

 そんな時、呼び鈴が鳴る音が、脱衣場から聞こえてきた。

 こんな時間に配達なんて、珍しいと思いながら私は無視することにした。

 どうせ母親が出るだろうと思っていたから。

 それでもまた呼び鈴がなった。

 しかし、今度は人の声も一緒についてきた。

「亮ちゃーん。いるー?」

 私を呼ぶこの声に聞き覚えがある。

 小学校、中学校と同じだった、同級生で親友の川鍋春樹だ。

 私の家から歩いて30秒ほどところに住み、中学生の時は特に、遊んだ。

 高校は別になってしまったので、遊ぶ回数も、話す回数もずっと少なくなってしまったが、交流は続いている。

 しかし、今日は彼と遊ぶ約束も、会う予定もなかったはずだ。

 何か特別な用事でもあるのかと思い「ちょっと待って!」と声の反響するお風呂場で叫んだあと、急いで脱衣所のタオルで身体を拭いた。

 用意してあった着替えに身を包んで玄関へと走った。

「よっ!」

 片手をあげた春樹は、制服ではなく、半袖にジーンズを履いた私服姿であった。もう片方の手にはビニール袋を持っていた。

「どうしたの?何かあったの?」

「誕生日だろ?祝いに来たぜ」

 意外な言葉だった。彼が私の誕生日に、事前に連絡することなくいきなり来ることがあるなんて、今までには無かった。そういうタイプでもないと思っていた。せいぜいスマホのチャット「おめでとう」とメッセージと送ってくれるぐらいだ。

 だからこそ、彼のこの行動には驚かされた。

 そして惜しいとも思った。

「いや、嬉しいけど。誕生日三日後なんよ。今日じゃないんよ」

 ここで、私ははっとした。

 どうやら私には、他人が言った言葉を細かいことまで指摘してしまう悪癖があるのだ。そのため、人と会話するときに若干嫌がられている気がすることがある。

 今回もやってしまったかと思い、彼の顔を見ると、彼はニコニコしてこちらを見ていた。

 そして徐に、持っていたビニール袋を掲げて見せた。

「あ、そうだっけ。まあ、いいや。プレゼント買ってきたで」

 中に入っていたのはカッププリンが一個のようで、ビニール越しにうっすらと見えた。

 僕はなんだか、嬉しくなった。

 ちょっと前にもあっていたはずなのに、なんだか久しぶりな気がして、そして何よりも誕生日を祝いに来てくれたことが私の感情を高ぶらせた。

 どうせ来てくれたのなら、家でゆっくり話をしていって欲しいと思い、うちに上がるように勧めた。

 春樹は快く了承してくれた。

「おじゃましまーす」

 私は母親に友達をあげることを伝え、二階の自室へと招いた。

 私は部屋を軽く片付け二人分座れるスペースを確保した。

 黒い炬燵の上で、春樹は私にカッププリンを渡してくれた。

「お誕生日おめでとう」と言葉を添えて。

 目に熱いものを感じた。

 恐らくはコンビニか、スーパーかで買ってきたもので、友人間でよくあるお菓子交換のような感覚で渡してくれたのだろうが、しかしながら、この時の私にとっては言葉にし難いものであった。

「ねぇ、二人でたべよう。春樹も一緒に半分こにしようよ」

 私は階段を駆け下りて、小皿一つと銀の匙二つを持って春樹のところへ戻った。

「お待たせー」

「おーお皿持ってきたんか」

「こうしたほうが食べやすいでしょ」

 私はテーブルにお皿を置くと、カッププリンの蓋を外して匙で半分に割った。

 それから滑らせるようにして、片方をお皿に移した。

「じゃ、いただきます」

「おう、いただきます」

 二人で会話をしながら、味を楽しむためにゆっくりとプリンを食べた。

 甘い。濃厚なプリン本体の味とキャラメルが上手くマッチしていて、冷たくて、美味しい。

 恐らく、これは私の中で最高の誕生日プレゼントだろう。

LINEで送る
Pocket