S c e n e5・終 焉(おわりのとき)

 その日の昼休み─────。
 私は屋上に上がり、さらに梯子を使って昇降口の上に登った。
 風が強い上に、防護柵(フェンス)も何も無いから、かなり怖い。
 まあ、そんなに端まで行かなきゃいいんだし、屋上の防護柵(フェンス)との問に1メートルくらの隙間があるから校庭の花壇に真っ逆様という事も無いでしょ………。
 こんな場所(ところ)に来たのは、当然(もちろん)私の意志じゃない。
 大将に誘われたから。
 お昼休みに生徒も先生も居ない場所(ところ)なんて、そうは在りはしない。
 でも、この季節に屋上に来る人なんて、まず存無(いな)い。
 それも、昇降口の上だなんて。
 だから此処(ここ)を選んだんだろうけど……。
 ───う…、鼻水が出そう。「ねえ…、いったいなんの…」用なの、と先に登った大将に訊こうとしたら、大将は足を投げ出すようにドッカと座って言った。
「ホッペタ、大丈夫か?」
「う、うん」と青黒い痣になった左頬を手で押さえてみせた。
「大変だったな、止めようとして叩(はた)かれるなんて」
 正面から拳で殴られた事は言わなかった。
 首を絞められたことも。
「平気よ」と大将の隣りに体育座りをする。
 体を丸めていないと寒いから。
「しかし…、古谷が命を護(かば)うなんて、思わなかったよ…。あんなに嫌ってたのに……」
「今だって同じよ‥…」
「…古谷………?」
「チビで、暗くて、脆弱(ひよわ)でさ…。なんの魅力も無くて……。私の理想(このみ)じゃないわ。あんな男(やつ)、大っ嫌いよ!」 でも大将は、この前のように怒ったりはしなかった。
 困ったような表情(かお)をして、ただ黙っているだけだ。
 私は膝の問に顔を埋(うず)めて、摩(かす)れそうな声で訊いた。
「ねえ、教えて欲しいの………。天野くんのことを‥‥‥、小学校の時代(ころ)のことを‥‥‥」
 私は顔を起こして、大将を鎚(すが)るような目で見上げた。
「……教えて‥‥‥…」
 大将も私を見返した。
 遠くを見つめるような目で。
「あいつは…、いつも震慄(おびえ)ていたんだ。死ぬかもしれない‥‥‥、いつも。だから…、だから逆に明るかった。勿論、嘘態(フリ)だったが……。それでも、誰よりも優しかった。俺は…、あいつを凄いと思った。だから………、友達になった。そしてあいつは、歪邪(まが)った事が許せなかった。それで喧嘩を度々した。だが、あの身体(からだ)だ。発作を起こすこともあって………。そのせいで、身体(からだ)が脆(よわ)いくせに生意気だと、虐(いじ)められるようになったんだ」
「サッチを助けたって………?」
「ああ…、それからだよ、あいつが自己閉鎖(とじこも)るようになったのは」
「どうして?」
「今日の安田みたいにしちまったのさ」
「え?」
「いや、あん時は相手に机を当てちまった。佐藤を戯(からか)って泣かせた奴等を、叩き倒滅(のめ)しちまったんだ」
「天野くんが、あんなに力があるなんて………」
「普通の力じゃあない…‥‥‥」少し言葉を選ぶようにして、「…超常能力…というのを信じるか?」
「スプーン曲げとか?」
「その超常能力を持ってるんだ、命は。古谷(おまえ)を助けた能力、安田に机を投げつけた能力(ちから)………」
 私は、どんな表情(かお)をしたらいいのか困惑(とまど)い、声が裏返りそうなのを押さえて言う。
「でも、手で……」
「例えば…、スプーンを曲げるのに十の力が必要(いる)として、超常能力を六だけ使い、残りの四を手で曲げたとすれば‥‥‥…」
「だから、片手であんなに軽々と‥‥‥」
「自分が爆発した時、制御(コントロール)できなくなってしまうことを恐れて、耐える方を選んじまったんだ」私の瞳の奥までを見つめるような目で、「……信じるか………?」
 返事(こたえ)は決まっている。
 私は黙って諾(うなず)いた。
「命のこと、好きになれるか………?」
「もう好きになり始めているわ。ただ……」
「ただ……?」「好きでいつづけられるか………、自信が…無い……。目が…、天野くんの目が醒めて、いつもの天野くんを…、今のままの天野くんを……好きでいつづけられるか…、それが分からない………」声が涙声になってくる。「こんな…、こんなこと思う私に、天野くんに好かれる資格…ある…? 私に、天野くんを好きになる資格…ある……………?」
「それは…、」と大将が言葉を迷わせると、トマトの声が届いた。
「ふ-ん、フッちゃんも成長したんだ」
 声のした方を振り向くと、トマトが梯子を登りきって昇降口の上に立っていた。
 トマトの後ろからは、サッチも梯子を登って来る。
 トマトは、サッチが登りきるのを待たないで私に近づいて来ると、ボソッと囁(つぶや)いた。
「莫迦(ばか)よ、フッちゃんは………」
 ───え? と私は困惑(とまど)う。
 すると、今度は大声で怒鳴った。
「莫迦よ!! フッちゃんは!!!」
 そこヘサッチが駆け寄って来て、トマトの肩を押さえつける。
「トマト、何を………」とサッチが訊いたけど、トマトは日常(いつも)の頬の赤味を顔中に広げて、矢継ぎ早に、私に言葉を浴びせかけた。
「フッちゃんて、いっつも我儘(わがまま)で、男の子たちに色々と請求(ねだ)ったりなんかしてさ、あたいの僻(ひが)みもあっけど、いっぱいいっぱい我耐(がまん)してたんだぞ! フッちゃんの美人を鼻に掛けた高飛車(タカビー)なところ、大っっっ嫌いだったんだから!!!」と息を切らせる。
 迫力負けしてしまって、何も言い返せない。
 ううん、言い返す気にならないんだ。
 大将が立ち上がって、トマトの興奮を宥(なだ)めようとする。
「コラコラ、どうした。頭の回路が乱電(ショート)しちまったのか?」
 トマトはぺタンと座り込んで、静かに…だけど強い口調で言った。
「………でもさ、フッちゃんて話しをすると楽しいし…、自分に素直で…正直でさ、優しい所もいっぱいあるって分かってたから………、好き……」
 ───えっと……。
「だからさ…、莫迦(バカ)なことに悩んじゃ……、悩むことないよ。好きになったってんなら、それでイイじゃん。好きになる資格だの、好かれる資格だのってさ…」ニッと笑って、「気づいたのは褒めてあげる」
「……ありがとう……」と私は素直な気持ちでお礼を言った。
「だけど、」とトマトはサッチを振り向いて、「良いの? 簡単に断想(あきら)めおって」
 トマトの言い方(よう)に、サッチは苦笑する。
「いいの…、いいの。だってアタシは……、フッちゃんが…。アタシは…、天野くんを護(かば)って、助けてあげられなかった‥‥‥。アタシ、アタシの方こそ、天野くんに好かれる資格なんか……、好きになる資格も……無い………」
 サッチは足を…、ううん、爪先から頭の先までフルフルと振るわせて涙を滲(にじ)ませた。
「そんなの…関係無いって、トマトも言ったでしょ!」と私は勢い良く立ち上がった。
 でもサッチは、「許不(ダメ)…、許不(ダメ)、アタシは‥‥‥」私から顔を反向(そむ)けて、「許不(ダメ)………」
 そして、みんな黙り込んでしまった。
 冷たい風の音が、耳を掠(かす)めて鳴りつづける ビュウビュウと。ビュウビュウと。
「後で…」不意にサッチが振り向き、「お見舞いに行くの?」と涙を拭(ぬぐ)いながら訊いた。「え? うん」と短く答える。
 サッチはニッコリと微笑んで、
「アタシの分も、お願いね」と言った。
 でも私は、「嫌よ。私は、私の分しかお見舞いできないもん」と答えた。
 四人(みんな)は、小さく笑い合った。
 ──────────────────────────。
 放課後───。
 私はまっすぐ病院に向かうと、三階に上がった。
 だけど──────。
 なんか…、様子が異訝(おか)しい。
 数人のお医者さんや看護婦さんたちが、忙しそうにバタバタと天野くんの病室(へや)を出たり入ったりしている。
 緩(ゆっ)くりと近づいてみた。
「優子ちゃん!?」
 突然(いきな)り後ろから声をかけられて、ビクッとしながら振り向くと、夏子さんだった。
「あの…、天野くんは!?」「それが、今朝(けさ)病院を抜け出しちゃって…」
 ───抜け出した!?
「それで!?」
「その……」と夏子さんは言葉を濁らせた。
 そこへ、天野くんの病室(へや)の向かい側にある空いた病室(へや)から、三~四十歳くらいの女の人が出て来た。
 かなり疲れた顔をしている。
「あなた…、もしかして古谷さん‥‥‥?」と話し掛けられた。
 この女の人…、天野くんのお母さん……!?
「そうです。古谷優子です! 同じ学級(クラス)で…、天野く…命くんに川で助けてもらった………」
 思わず膝を折って床に手を付いた。
「請恕(ごめん)なさい!! 私のせいで…、こんな………」後は言葉にならなくて、額を床に擦り付けた。
 命くんのお母さんの手が、そっと私の左肩に触れる。
「いいんですよ。あなたも子どもを助けようとしたのでしょ? その子とあなたが助かっただけでも…。もともと小学校にも上がれないだろうと覚悟していました。そのあの子も最後に人助けができて………」「そんな! 最後だなんて…」と顔を上げた。
「……もう、不能(ダメ)なんです…。さっきも一度、心臓が止まって………」と目頭を押さえる。
「そんな………」
 お母さんの流す涙に誘われて、私も涙が込み上げてきた。
 その時、命くんの病室(へや)の中の喧騒が、さっきよりも騒がしくなった。
 夏子さんも慌てて病室(へや)に入る。
 空いた病室(へや)からは、命くんのお母さんよりも少し老けた感じの男の人が飛び出して来た。
 命くんのお父さんに違いない。
 命くんがいる病室(へや)の中では、いったい何が起こっているのか‥‥‥。
「脈拍、心拍ともに不整!」
「呼吸も微弱になってきています!!」
「電気衝撃機(カウンターショック)の用意! 強心剤!!」
 そんな会話(やりとり)が、病室(へや)の外にも激しく聞こえてくる。
 私も、命くんのお母さんとお父さんも、病室(へや)の前で固唾を飲んだ。
 息をするのも忘れる程の緊張に包まれる。
 一分過(た)ち、二分過(た)ち、三分…四分………。
 後は分からない。
 そして……、病室(へや)の中が急に静まり返った。
 半開きの病室(へや)の引戸(ドア)が、そっと開(ひら)いて、夏子さんが小さな声で知らせた。
「……入って下さい‥‥…」
 その言葉に導かれるようにして、命くんのお母さんとお父さんは、黙って病室(へや)に入って行った。
 私は…、入って行けなかった。
 床に付いた膝に力が入らなくて、立ち上がることさえできない。
 お医者さんの重苦しい声が、病室(へや)から洩れてきた。
「この心臓は機能していません。延命措置を望むのでしたら、それも可能ですが、一生植物人間のままでしょう。……十六時四六分。この時点をもって、臨終にします。判って下さい」
 そして、命くんのお父さんの、「……はい………」という、絞り出すような低い声だけが聞こえた。
 ───死んだ…?
 ───命くんが…死んだ………?
 ───死んじゃったの………!?
 ───まだ…、「ありがとう」とも、「好き」だとも言ってないのに…、伝えてないのに!!
 ───命くん!!!
 ───そうだ、あの夢──────!!
 夢の中で命くんは赤褐色(あかい)龍に食べられて、今日はその赤褐色龍が命くんの身体(からだ)から出てきた。
 そして、私を助けてくれた光の球……。
 もしかすると、あの夢は夢じゃないのかもしれない。
 命くんの魂は、そこに居るのかもしれない。
 それなら、それなら私、それなら私も………。
 私は悠然(ゆっくり)と立ち上がって向かい側の空いた病室(へや)に入ると、引戸(ドア)を閉めた。
 鞄を開けて、乱暴に中身を強撒(ぶちま)ける。
 欲しい物は、彫刻刀───。
 今日の美術で使うはずだった彫刻刀。
 可塑性製箱(プラスチックケース)を開けて、小刀を取り出す。
 そして婦下服(スカート)の衣袋(ポケット)からは、命くんの懸想文(ラブレター)の入っている水色の封筒を出して、左手に握り締めた。 右手に持った小刀の刃先を左手首に当てる。
 冷鋭(ヒンヤリ)と冷たい。
 ───怖い───。
 ───怖いけど‥‥‥…。
 陽が沈んで暗紫色(うすぐら)い空の見える窓に閃(ちら)っと目をやると、蛍光灯の光が反射している中に、赤褐色(あかい)龍に襲われている命くんの姿が見えたような気がした。
 ───命くん────────────!!!
 小刀を持った手に力が入って、手首を切りつけた。
 ───痛い!!! グシャと封筒を握り潰してしまう。
 それでも私は、悲鳴を押し殺しながら何度も何度も、何度も切りつけた。
 血が垂落垂落(ダラダラ)とたくさん流れて、白い床に赤い血溜まりが広がっていく。
 だけど‥‥‥‥。
 これじゃ無理(ダメ)だ………。
 こんなんじゃ……。
 もっと、もっと一気に……………!
 突然、引戸(ドア)が開かれて、目頭を手布(ハンカチ)で押さえながら命くんのお母さんが入って来た。
 そして、私に気がついた。
「あなた………………!?」と駆け寄って来る。
 咄嗟(とっさ)に窓際に逃げて、持っていた小刀で、私は私の喉を切り裂いた──────。

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